2009年5月30日土曜日

東京大学の歴史的役割に鑑みる東京大学の「良いところ」「悪いところ」

東京大学は良くも悪くも特殊な機関であります。

東京大学は1877年にわが国で初めて設立された大学であり、当時は唯一の大学であったため「帝国大学」「大学」と呼ばれ、現在の英語標記が「The University of Tokyo」と定冠詞「The」を付けて表記されているのも唯一の大学であった頃の名残りです。






よく言われることですが、明治時代、西洋列強に追いつくために近代化することを急務としたわが国において、東京大学は極めて大きな役割を担いました。

一つは、水村美苗氏が著書「日本語が滅びるとき」で書いているように、「学問の言葉」が英語、ドイツ語、フランス語であった時代に、東京大学は巨大な翻訳機関として西洋が蓄積してきた叡智を日本語に翻訳し、日本人が共有できる形へと変換したことです。

そしてもう一つは、政官学財の各界に、このような叡智を応用して近代化を推進するリーダーとなる人材を輩出してきたことです。

東京大学が「叡智の集積・叡智の翻訳・叡智を応用する人材の育成・叡智の応用」を行ってきたことが、わが国の近代化の礎を作ってきたことは確かあり、歴史を振り返ると東京大学に結果的にこのようなたくさんの「良いところ」があったからこそ、わが国の近代史において極めて大きな役割を果たし得たのだと言えます。







それでは2009年現在の東京大学はどのように評価されるべきなのでしょうか。








上述した東京大学が歴史的に担ってきた4つの機能のうち、「叡智の集積・叡智の翻訳」は、現在も東京大学に限らず様々な大学で活発に行われています。

「叡智の応用」は、技術が高度化し、叡智を応用するプロセスに大きな資本が必要な時代の要請に応えて「産学連携」という形で進められております。まだ多くの課題があるようですが、近年になって東京大学エッジキャピタルや東京大学TLOが設立され、力強く推進されている分野であると言えます。







このように、東京大学は明治以降に担ってきた役割のほとんどを引き続き担っている、或いは担うための体制を常に能動的に整えていると言えます。

これらは、「東京大学の役割」を明確に意識した、東京大学の「良いところ」であると思います。






他方、「叡智を応用する人材の育成」という点については、今日の東京大学が果たすべき役割を果たしているどうかは少々の疑問が残ります(お世辞にも優秀な東大生である

とは言えない私がこのような主張をする僭越をお許し下さい)。

私は、今日の東京大学が直面する最も大きな問題は、「学生の均質化」と「学生の意欲・責任感の低下」であると考えています。








日本の受験界の頂点にある東京大学には、経済的な事情から東京大学に通えない方を除いて、少なくとも受験勉強において最も高い成績を収めた人々が入学しています。

これは、東京大学(帝国大学)の黎明期と表面的には同じ状況ではありますが、当時と決定的に違う点があります。

当時は高等学校(旧制中学)以上の教育を受けられる人自体が少なく、大学にはほんの一握りの、意識・意欲の高い人材だけが入学していましたが、今日はいわゆる「大学全入時代」が到来しており、同じようなカリキュラムで、同じように育成された高校生が、画一的な試験で高い点数をつけた順に偏差値の高い大学に入学していく仕組みになってしまっています。

これには二つの弊害があります。

一つは、当然ながら、「上から順に数字をつけて、一番高いグループは○○大学、次のグループは○○大学、次は○○大学・・・」と分類していることになるので、入学試験という尺度での「均質化」が起きるということです。これによって、「(点数が)上だったやつに追いつこう」という向上心や「下だったやつに抜かれないように努力しなければ」という危機感も薄れます。「みんな大体同じなはず」だという変な連帯感が安心感を生み、学生が努力する動機を幾つか削いでしまうことになります。また、たとえ入

学試験以外の面において東大生以外の人に大きく差をつけられていても、入学試験という尺度での序列が変な優越感・安心感を与えてしまいます。

もう一つは、「受験勉強の合格点取得 = 東京大学が提供する利益を一身に享受することの正当化」という図式が出来上がってしまうことです。
「東京大学に入学するだけの点数を取ったのだから」という理由で、「東京大学で教育を受けること・東大生であること」を心理的に私物化・私有化してしまうケースがあるように思います。それは、「東大卒」という肩書きを就職活動用の材料ぐらいにしか思わない東大生を生んだり、不必要に他大学を見下す東大生を生んだりします。「東大生であること」を当然の権利としてしか見ず「東京大学」を自分の目標を達成するための道具として用いる学生が増えているとすれば、社会的な責務を感じて日本の近代化のために尽くした明治期の東京大学と同じ役割を担う力は弱っている恐れがあります。







つまり、非常に悪く言えば、同じような環境で育ち、同じ尺度で選ばれた均質な学生が、均質だという安心感の中で、「東大生・東大卒」という「当然の権利」を行使して、自分自身の目的達成のために東京大学を利用する、という状況が一部には生まれつつあるということだと思います。

これは、様々な環境で育った学生が、「東大生・帝大生」であるということを権利だけでなく責務として捉え、日本の近代化のために尽くした過去の東京大学とは一線を画すものであります。

そして様々な国の学生と国際交流をしていて思うのは、中国やインドのような新興国のみならず、アメリカのように日本よりも発展しており、教育の歴史が長く、水準が高い国においても、後者のタイプの学生が多いのではないかということです。最高学府の学生の均質化と意欲の低下は、日本の最高学府で学ぶ東大生に特異なことであるのかもしれません。

それでは、この状況を打破するためにはどうすればいいのでしょうか。





他国の学生と真剣な議論や交流の中で接することは、「東大生」である自分自身を、「国内の画一的な評価制度」で上位にあるということだけでなく、「世界の大学生」という別の部分集合の中で捉え、自分自身の強みと弱みを他国の大学生との相対の中で感じることになります。こうして自分自身を相対化することこそが、変容してしまった東大生の意識・意欲に再び「適度な危機感・緊張感」「権利と責務のバランス」を芽生えさせることになるのではないでしょうか。

そしてこのような東大生の質的な変容が再び強い日本をつくる原動力になり、結果的には個々人の利益だけを追求した場合以上に、個々人の目標達成および利益にもつながるものであると思います。

東京大学の132年の歴史の中にあった東京大学の「良いところ」と「悪いところ」をしっかりと見据え、現在の東京大学の「良いところ」と「悪いところ」と照らし合わせ、守るべきところを守り、変えるべきところを変えていく。法人化後の東京大学は改革を果敢に進めていますし、これからの東京大学を非常に楽しみに思います。

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