2010年7月6日火曜日

荀子「性悪説」②

こんにちは。Morimotoです。

今回は、UT-NTUから前に戻って、荀子の「性悪説」の続きを書いてみたいと思います。

孟子の「性善説」を、現実の人間の行動に照らし合わせて正面から批判した荀子でしたが、彼は自説を以下のように補っています:

今誠以人之性固正理平治邪,則有(又)惡用聖王禮儀,將曷加于正理平治也哉。

つまり、いま、人間の本性がもともと善に代表されるような正(行いが正しい)・理(理にかなっている)・平(安定している)・治(秩序がある)であるとすると、どうして聖王や礼儀によって、これらの性質を補わなければならないのか(いや、その必要はないだろう。)、と言っています。

現実を見ると、聖王や礼・儀という概念によって世の中を治めようとしているではないか。仮に、人が元々善であるならば、それらの概念をわざわざ持ち出す必要はないのではないか。

続けて、

今不然,人之性惡。⋯⋯故性善則去聖王,息禮儀矣,性惡則與聖王,貴禮儀矣。

つまり、いまは聖王や礼儀というものを持ちださなければ、世の中は治まらないから、人間の本性は悪である。・・・故に人間の本性が善であるならば、聖王や礼儀を取り除き、悪であるならば、それらを重んじよ、と結論づけています。

荀子が、社会の現実的な状況から人間の姿を捉えていることが分かると思います。こうして見ると、彼が孟子の「性善説」を誤解していたように思われます。

孟子が人間を根源的なものから捉えようとしていたのに対し、荀子は現実に映し出された人間からその本性を捉えようとしていたとも言えます。

その現実とは、戦国時代にあっての現実。今とは少し違うかも分かりません。「利」をもって人と接し、利害関係を重んじた社会であったのかもしれません。長年尽くしてくれた臣下であっても、自分の地位が脅かされる可能性があると容赦なく切り捨てていた時代です。

そんな時代に、孟子や荀子は何を思ったのでしょうか。彼らは、どのような視点から、社会を良くしようとしたのでしょうか。

解釈にずれがあると思う方は、ご指摘願います。

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